代表者プロフィール

1.ほぼ体育会系の学生時代

 学生時代は友達の影響でずっとスポーツに関わってました。お陰でスポーツは見るのもやるのも好きです。以下、順番にいきます。

 

①(ミニ)バスケットボール部 (小5~6)

 小5年の冬に新設され、友達の誘いで創部メンバーに。体育館がなく冬も屋外で練習したため、指10本霜焼けでグローブ状態に。授業中は鉛筆と格闘&痒さに悶絶です。

 

 監督にそろーっと「軍手していいすか」と尋ねると「手の感覚が狂うだろーが!」

 

 創部直後の親善試合で隣接校に大差で敗北して凹むも半年後にダブルスコアで雪辱。そのまま県ベスト8入りできました。


②陸上部:400,800,1500,駅伝 (中1~高3)

 バスケ部の1年余りで眼鏡を数回壊しまして、中学では球技以外で得意だった陸上部へ。

 

 まず運動部特有の洗礼?を受けました。部ごとに異なる挨拶とかありまして。記憶が曖昧ですけど「ちわーっす」「ちぃーっす」「ういーっす」とか。“す”を抜かしてフェードアウトするとカッコイイとかで「ちぃぃー・・・」とかも。変声期特有の低い声で響かせるとイケてるらしく、何だか不機嫌そうな低~い声で引っ張るのがサッカー部界隈では〇でしたね。

 

 あとはグランドに並ばされて挨拶の練習。何事も練習なのであります(笑)。「声が小さーい!」なんて昔の「8時だよ 全員集合!」みたいですけど、辛さ10倍増しくらいで。先輩の前で低い声出すと「生意気なヤツ」って目を付けられるのに敢えて挑まずにはいられないヤンチャ君がいたり。懐かしいっす。

 

 肝心な駆けっこの方は、800m・1500mと冬場は駅伝でした。ベストは800mで2分8秒、1500mは4分32秒。駅伝は色んな会場に皆で行けコースも多彩で楽しかったです。ただ毎回激戦区の一区を走るので、チームメイトが区間賞のメダルを貰うのを見ては内心ザワついておりました。。。

 

 高校でも中学時代のライバルに「入るよね?」と誘われるまま陸上部に。ただ中距離の選手層が厚くて800mと400mに転向。800mは2分0秒、400mは53秒4、腕試しで出た1500mは4分15秒でした。自主練で誤った筋トレを続けてフォームを崩してしまい伸び悩みました(涙)

 

 31kmの長丁場を走る恒例行事の耐久レースでは、なんと高一のときに学年別で優勝。学年別の大会記録だったらしく、2時間10分は切っていたと思います。「長距離陣に勝てるわけないじゃん!」とマイペースでトコトコ走ったのが良かったみたいで(笑)     

  

 最大の難関は不定期に訪れる隣の女子高での共同練習。みなカッコいいところを見せようと大会以上のパフォーマンスを発揮するので(笑)、非常にタフな練習でした。嬉しいやら苦しいやら。  

 

③バスケットボールサークル(大学1~4年)

 ときはバブル真っ盛りの80年代後半とはいえこちとら田舎育ち。たまたま入ったテニスサークルのチャラさについて行けず、1年生の夏に「バスケのサークルを作ろう!」と今度は私が友人を巻き添えに。

 

 なぜバスケかというと、当時「渋カジ」なるファッションが流行して、NBAのTシャツとかトレーナーとかあったんです。「これはイケるぞ」と。スタジャンも揃えたり(照)。

 

 区立体育館で週1,2回の練習して、元国体選手もいて学内では優勝争いしてました。春は新歓合宿、夏は海、冬はラグビー観戦にスキー合宿、それとM越本店で中元・歳暮のチームバイトが恒例行事でした。

 

 当時の若者といえば冬は大挙してスキー場へ。今思えばスゴイ社会現象でしたね。

 

 和気あいあいとしたアットホームな組織作りを心掛けたせいか、2学年に1組以上のペースで部内結婚も。サークルは卒業後も四半世紀続き、多くの学生の居場所と出会いの機会を提供できました。

 

 4年間も遊びまくったツケは、社会人になってから平日深夜のファミレスで払うことに。保有資格の大半は睡眠時間を削って取るしかありませんでした(涙)。眠気覚ましガムの消費量がハンパなかったです。

2.学び多き銀行時代

①新人時代 ~冷えゆくバブルの余熱~  

 東京の下町が社会人の初舞台でした。砂町銀座とか木場の辺りです。当時の営業車といえばエアコンはオプション装備(=なし)。それ以前に新人の乗物は自転車で、日々実績に追われる“自転車営業”でした。

 

 営業で驚かされたのは「年金の指定替え」。信金さんや郵便局さんが届け金までしてくれる指定口座を、高齢者に拝み倒して何とか変更してもらう、という代物です。獲得データ上は12回通うのが平均とか言われ、みな文句一つ言わず(溜り場では愚痴を吐きつつ)やっていました。。。

 

 都銀で届け金の対応は出来ませんから、お客様には何のメリットもなく、当然ながら嫌われました。


 先日まで能天気な大学生だった私も、さすがにこの不条理には「絶対に間違ってる」と疑問に感じます。ついに腹を括り「こんなの誰のためにもならない。自分はためになることをやろう」と覚悟して、年金の代りに「こっちの方がきっと喜ばれるはず」と法人の新規開拓に励むことに。支店の重点項目ではないので手掛けていたのは私だけでしたが、マイペースでトコトコ進むことにしました。

 

 車のシフトレバーもそうですが、マニュアル(車)時代には“遊び”がありました。目標項目をやらないのは半ば業務命令違反ですが、その“遊び”のおかげで後に大きな成果を生み出せました。皆がやっていないということは今風にいえば「ブルーオーシャン」なわけです。訪問先ではよく「〇〇銀行さんか。珍しいねえ」とよく言われたものです。

 

 遊びといえば、営業デビューして初めて仕えた課長はいわゆる“宴会部長”さん。カラオケが渋くて絶品でスナックではママや女の子の人気者でした。ただ課の業績が今一歩で不本意な転勤に。送迎会では「課長、ごめんなさい」とわんわん泣いてしまい・・・お開きの時に支店長が「課長冥利に尽きるね」と課長を労ってくれました。

 

 私の法人新規開拓が花開き始めたのは、大好きだった課長が転勤してからのことでした。

 

②金融危機の時代

 じつは初任店で人生初の融資を焦げ付かせ、自ら回収業務までこなす羽目になっていたので「銀行人生終わったな」と覚悟していたら、本店営業部に次ぐ大店(おおみせ)に就くことに。

 

 法人新規開拓チームで再び新境地を“自転車営業”。97年4月の消費増税、夏のアジア通貨危機、冬の山一北拓破綻という暗黒時代でしたが、当時の貸し渋り・貸し剥しとは真逆の新規融資のみを担っていました。

 

 “自転車営業”の中で「財閥系子会社が意外と反応がいい」ことに気付き、類似の企業を回りました。本体から資金繰り確保の指示でもあったんでしょう。我ながら良い着眼点で。

 

 そうして幾つかの先で好感触が掴め、その中から「では上司の方ともお会いしましょうか」と待ちに待ったお話を戴いて、新規専担者としては最大の務めである「お膳立て」を整えたわけですが、上司が帯同訪問を避けているうちになんと突如“既存班”へ担当替えを拝命しました。。。

 

 新規班を率いるトップは一つ上の新規専担者と大学が同窓。帯同訪問の依頼をしたときも「今度(単独で)行っておくよ」と妙なリアクションでした。その先輩は後日この案件をまとめ“最上級クラス”のご栄転に。

 

 20代の若者にはショックでしたし、何より「こんなことがこの先も続くのか」と思うと憂鬱になりました。

 

 ただ不思議とその2人を憎むような気持ちは初めから全くなくて(むしろ2人ともナイスガイ)、誰だってそりゃ後輩は可愛いですし。個々の人間云々などより、これが通る企業体質への失望感の方が遥かに堪えました。

 

 悔しいといえば。あるとき仕えていた支店長が不運なトラブルに巻き込まれたことがあります。不本意な処遇が予想される中、定期預金の獲得運動で「支店長の無念を晴らすためにも絶対に評価グループで最優秀店にするぞ!」と遮二無二かけずり回りました。

 

 運動も最終盤、ある難しい大口預金先で「〇〇さん、お願いします!支店長には大変お世話になったんです。何とか・・・」と目を真っ赤に腫らしてして頼み込んでいました。普段は「ワシの知ったことかいな」とにべもない方が「わかった」と全額を…。おかげで何よりのはなむけと恩返しが出来ました。

 

プライベートバンキング部時代

 90年代の金融危機で邦銀は草刈り場。外資系生保の勧誘が盛んでPD生命やAC生命からスカウトの電話が止みません。ただ百戦錬磨の外交員さんと競り合うのは、年金指定替えで音を上げてしまう私(苦笑)などにはムリだと自覚してました。

 

 渡りに船だったのがプライベートバンキング部(以下PB部)の創設でした。任命当初の半年間、朝から晩まで資産運用や相続税対策、不動産の有効活用など学生のように(失礼、学生時代以上に)勉強できました。

 

 創部当初は欧州型のPBつまりスイスのPBを基調路線としていたので、クライアントの資産を様々な課題から守ること、金融業務にとらわれずクライアントの課題解決に努める姿勢に純粋に憧れました。何よりその数百年に及ぶ歴史と伝統が、「お客様の役に立っているから、スイスの銀行は規模こそ小さくても脈々とその伝統を紡いでいける」と雄弁に物語っており、ストンと腹に落ちるものがありました。

 

 この経験を境に、私の職業観は大きく舵を切り始めました。程なくして「この仕事を家業にしよう」との覚悟が固まりました。

 

 この仕事を通じて多くの方にお会いすることができ、本当に「世界」が広がりました。人は「狭い日本・・・」なんてよく仰いますが、この国はとても広く、そしてどの国よりも深いと思います。

 

 守秘義務は死ぬまで(いや死んだ後も)続きます。プライバシーに関わる話題は口が裂けても申し上げられませんが、お一人お一人に人間ドラマ、聞くも涙語るも涙の物語があって、それは今も心の引き出しに息づいています。

 

 金融業に限らずどんな仕事でも同じだと思いますが、その仕事を通じて最後に到達するのはやはり人なんだなあ、と思います。

  

 この間15年。本当に沢山のことを学ばせて戴きました。青二才から育ててくれた銀行には感謝の気持ちしかありません。

3.毎日が修行のIFA時代

 鋭意作成中です、、、

 いま暫らくお待ち下さいませ。