徒然なるエピソード

3.毎日が修行のIFA時代

Piggy bank(英語で貯金箱)がお気に入りです。
Piggy bank(英語で貯金箱)がお気に入りです。

①空振り三振の創業期

悶絶と苦悩の仙台

 「見るとやるとは大違い」

 

 これを実感したのが創業時の悶絶の数々です(笑)

 

 まず創業の地を最後の赴任地である仙台にしたという甘い見通し。

 

 正直な話、これは在籍中に優良先を数多く担当していたので、その取り込みを目論んでのことでした。悪だくみは通りませぬ(苦笑)。相談の受付など案件化する度に片っ端から失注することになりました。防衛する側からすれば当然のことだと思います。

商売繁盛の福の神「仙台四郎」
商売繁盛の福の神「仙台四郎」

 証券会社の店舗数も少ないので首都圏に比べて競争もあまりないのでは、という期待もありまして。「出店が少ない=需要が少ない(という他社の市場分析の)現れ」だと冷静に見れませんでした。

 

 こうしてあらためて立地の選定理由を挙げるとその邪(よこしま)さと稚拙さに情けなくなります。経営判断も何ごとも、邪念邪心は目を曇らせます。。。

 

ところでこの“経営”という言葉は仏教由来の言葉だそうです(元々は周代の故事)。仏教教団は人間が作った“組織”のなかで世界最古だとも言われ(組織の定義など諸説あり)、仏道と経営を重ねる経営者をしばしばお見受けいたします。“経を営む”、深そうです。。。

 

 さて、そんな中でも新規に社長さんや開業医の先生と取引にこぎ着けるなど健闘していたのですが、なにしろ金融庁の認可が下りたのが法人設立から4か月後の2008年12月、リーマンショックの真っ最中。

 

個人的にはリーマンショック前にすべて売り抜けていたこともあって、状況認識を誤り甘く見てしまいました。初めて投資される場合(つまり無傷の方にとって)は、紛れまなく最高のタイミングでしたが“千載一遇のチャンス”は“千載一遇のピンチ”の裏返し。かなりの度胸が必要で、立ち尽くされる方が大半でした。

 

2009年の冬といえば米オバマ政権と金融当局、各金融機関の幹部らが連日連夜、或いは週末に会合を開くような非常事態。仙台はもちろん、世界中の個人投資家がまさに満身創痍の状態です。

 

そんな状況下、他の商売と同様に新規客の開拓にも勤しみましたので玄関先で「証券って言葉は聞きたくない!」とか「お前らのせいで酷い目に遭わされたんだ!」とか「〇△×◇§ΣΠЖ」とちょっと文字に起こせないような罵詈雑言も(初対面の方々から)頂きました(涙)。

 

 当時はこれを額面通りに受け止めてしまい大変つらい時期を過ごしました。ちょっとしたトラウマです。。。

 

とはいってもこれは自分が自分に作った壁みたいなもの。歴史的な大暴落に遭遇し、お客様は諸々に対しての本心からのお怒りや心の叫びの遣り場を、そして解決策をお求めだったのでした。

心機一転?深みにハマる…

 常識的に考えたらこんな状況では戦線を縮小か後退させるか、せいぜい維持が定石です。ところが「この局面を変えたい」との一心で私が選んだ選択肢は、“拡大路線”でした。

 

 やってしまいました。

 

 状況認識を誤ると、当然その先の経営判断にも狂いが生じます。

 

 自分の場合は「打ち手もPRも足りないのではないか。やはりオフィスを構えて広告も打とう」と言ってみれば“短期決戦”に挑んでしまったのでした。サラリーマン時代の小さな小さな成功体験を過大評価していましたし、何より状況認識が誤っていました。

 

 引き続き自宅マンション(分譲賃貸)でやれば良かったのですが、売上が安定しないうちに仙台のど真ん中のオフィスビルに事務所を構えました。一階には銀行が店を構えています。店舗兼用として改装にも凝りました。ちなみに契約した目の前の立体駐車場代は月4万円です。

 

 さらにはマーケティングの知識も経験もないくせに、両面フルカラーのチラシを外注して新聞折り込みをやりました。一回で数十万円が羽を生やして去って行きます。零細企業がこんなことしても効果が出るはずがないのですが。(零細どころか銀行や証券会社が折り込みチラシを利用しません)

 

 こんな感じで2年で1,500万円以上溶かしました。製造業だったらもう一桁いくところです。

 

 退職後も変わらずお付き合い下さるお客様もいらっしゃって、文字通り生涯のお付き合いをさせて戴いた方もいらっしゃいましたので後ろ髪を引かれる思いでしたが、出血は止めないと死に至ります。ここまで来るとさすがに自信もカラ元気もいい感じに挫かれて、「これは撤退しかない」と決断しました。

 

前職の仕事柄、ケーススタディ(企業の事例研究)本は渉猟してきましたが、机上の話(評論)と生身の経営(実践)は天と地ほど違いました。「経営者はすべての結果責任を負う」ということの意味を知りました。

 

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」とはいうものの、実際のところ火傷の熱さは火傷するまで分かりません。経験は生身の体験ですから、失敗すれば痛みも出血も伴います。私のような愚者でも問答無用に身に付きました。

②復活を遂げたら…

復活を遂げた宇都宮

 そんな具合で地元の小山に戻るのですが、事務所は商圏の規模(小山市16万人・宇都宮市50万人などのデータ)を考えて宇都宮を選定し、繁華街も近い大谷石造りのビルの3階に入居しました。

 

 家賃も駐車場も数分の一の水準になりましたが、一番有り難いと感じたことは“言葉の壁”が無くなったことでした。


 東北では特に地元の言葉遣いでないと、皆さん口にはしませんが何となく“余所者モード”になります。出身地を聞いて「あ~そうが」の後にしばらく「・・・」みたいな。

 

 移転当初、年中行事から学校まで“共通の話題”があると無いとでも全然違うんだなあ、とつくづく感じました。

 

 よく海外勤務などで日本を離れて異国の文化や人々を知ると、帰国する頃には日本人としてのアイデンティティや祖国への愛着が人一倍に募るといいますが、分かる気がします。

 

 思えば就職以来このかた転勤族だったこともあって、知らず知らずのうちに“故郷”というものが自分の中からすっかり抜け落ちていました。

 

 ともあれ、こうした環境面の変化も手伝って順調にお客様が増えてきました。

  

 当時はアベノミクスどころか自民党在野の“3年3か月”ですから経済政策的には逆風(経済成長よりも再分配志向)でしたが、マーケット的にはリーマンショックが癒えつつあり“最悪期”は脱していました。

そして東日本大震災が・・・

 そんな矢先に、東日本大震災が起きました。

 

近年、地震・火山の噴火・台風に大雨と災害も多いので、少し詳しく書き残そうと思います。

 

宇都宮市内は震度5強。経験したことの無い激しいタテ揺れで、堪らず大家さん・ご近所さんと一緒に近所の小学校の校庭に避難しました。大きな余震が続いたので小一時間は居たでしょうか。

 

 道路が心配だったので早めに車で帰路につくと(道路は無事でした)テレビ画面には驚くべき光景が広がっていて、言葉を失いました。

 

被害が大きかった沿岸部の気仙沼から、石巻、名取、岩沼、南相馬の各市と浪江町、この南北約200kmには私が担当していたお客様がお住まいでした。

(PBの担当先は地域でなく残高で決まるため、往時の金融債人気の影響もあって広域でした)

津波で寸断された大洲松川ライン(右は日本百景の一つ・松川浦、左が太平洋、画像上方が相馬方面)2018年にようやく全面開通しました。
津波で寸断された大洲松川ライン(右は日本百景の一つ・松川浦、左が太平洋、画像上方が相馬方面)2018年にようやく全面開通しました。

 私が知っているのは、広い海と緑豊かな山や白い砂浜が道沿いに広がり、所々に漁業の街が姿を見せる、絵に描いたように美しくのどかな光景です。

 

 狭い道の左右に太平洋と松川浦を眺めながら松川浦大橋を渡り(慣れている人は渋滞する国道6号ではなく風光明媚な海沿いを走ります)、帰路は日も暮れて山元町のいちご栽培のハウスの明かりが幻想的に浮かびます。さながら月1回のドライブでした。

 

 その通い慣れた大好きな景色がズタズタに切り裂かれていました。その惨状をまざまざと見ていると胸が張り咲かれる様な思いがして、居ても立っても居られません。

 

 仙台在住時に坐禅会でしばしばお世話になっていた禅寺があるのですが、被災直後に「今すぐに向かいたいが何かお手伝いできませんか」と連絡すると「まだ道路も寸断されていて危険です。時期が来るまでお待ち下さい」といった回答でした。

 

 住んでいた若林区のマンションの友人に尋ねると「エレベーターの故障・断水・停電で生活できない。町内会の炊き出しが始まるらしい」“諸々の処置”にさえ手が回らない状況で「通勤で通る沿岸部の惨状はとても子供には見せられない」と、普段は陽気な友人が重い口調で絞り出すように教えてくれました

 

ここに至って、ようやく現地に頼ってはいけないのだと気付きました。兎にも角にも衣食住の確保が第一ですが、あいにくどれも不得手です。「何の支援が出来るんだろう」と思案しました。

 

やはり被災した子供たちが一番気掛かりだったので、ネットで呼びかけて子供向けの本を提供してもらい、現地に届けるというボランティアを企画しました。瞬く間に全国から4千冊近く集まりました。

 

 訪問は土日で車中1泊2日と決め、初回は発災の翌4月に決行しました。一度に1,000冊余り、段ボール一箱に平均50冊程つめて約20箱を積んで、石巻市・東松島市・塩竃市・名取市と回りました。浜通りの常磐道は上も下も壊滅状態なので、東北道から仙台入りして回れるエリアを選択しました。

 

東北道も那須を過ぎた辺りから波打っていた時期。こんなデコボコ状態でも通行を許可していることに事態の深刻さを感じました。全国から自衛隊・警察の関係車両の隊列が続々と集結中で、SAに駐車する車の大半が、関係車両・ボランティア・親族と思しき家族連れでした。

 

 その後3回にわたって、北は盛岡市経由で岩泉町のボランティアセンター(ボラセン)から田老町、宮古市、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市の各地を、南は仙台経由で、名取市、相馬市、南相馬市、浪江町の各地を回りました。

 

 身(腰?)を以って実感したのが、流通(業)というのは物流センターが“センターピン”だということです。当たり前な話(物流のセンターですからね)で失笑されてしまいそうですが、ホントに重労働でした(笑)。

 

 かつてAmazonが書籍専業で存続すら危ぶまれたベンチャー企業だった90年代、“click&mortar”(“クリックもモルタルも重要”→クリック=ネット、モルタル=レンガ造りから連想される物流倉庫)といって、“物流の重要性”が説かれていたことが思い出されました。Amazonの日本最大のロボット物流センター(20万㎡/東京ドーム4面分)は2013年に小田原に建設され、今やバフェット銘柄。隔世の感があります。

 

話を戻します。全国各地から届いたままの梱包では現地で混乱しますし搬送の効率も落ちるので、大家さんが提供してくれた事務所4階に一旦集荷し、車載用の段ボールにカテゴリ別・サイズ別に仕分けし直しました。(たしかにIoTは時代の要請です・・・)

 

そして当日早朝に積み出し作業(4階→1階、積み込み作業)を済ませて不整地や海水混じりの砂泥地も進んで現地では車中泊、龍泉洞で有名な岩泉町の回では往復1,200km以上走りました。

③ボランティアも仕事も煎じ詰めれば…

陸前高田市の奇跡の一本松(2015年)
陸前高田市の奇跡の一本松(2015年)

まるで戦場と化した被災地に届けたもの

 被災地の実態は、私の想像をはるかに超えていました。

 

現場ではテレビの映像と違ってフレーム(枠)がありません。どこまでも広がる荒涼とした廃墟・住宅の基礎・瓦礫。そして海水と重油と汚泥の混じった臭いが街全体を覆っています。

 

港町の多くで漏洩した船舶用の重油が引火して火災が発生しました。まだ焦げ臭さが残り廃墟から折れた電柱まで真っ黒で、街全体が黒いのです。

 

 目に入るもの全てが破壊し尽されているという惨状はまるで映画やドラマで見る“敗戦後の焼け野原”のようでした。

 

何よりつらいのは、献花やお菓子や縫いぐるみを自宅跡の基礎部分に見つけたときです。胸を激しく締め付けられ、何度も膝を屈しました。


 陸前高田に大学のサークルで創部当初から苦楽を共にしてくれた同期生を訪ねました。市内を一望する丘にある自宅は津波をすんでのところで免れ、その現場で彼はこう語っていました。「自衛隊の人達は瓦礫の中から傷んだ遺体を探し出してくれ、手の付けようのない瓦礫の山を整理してくれた。心を病むほど頑張ってくれたあの人達に、俺は一生足を向けて寝れない」

 

 彼の話を聞いて、自分が被災地の至る所で目にしたもの、例えば丘の斜面や横断歩道橋にまで、自衛隊への感謝のメッセージが書かれた横断幕が張られている風景が思い出されました。自衛隊のキッチンカーの周辺は被災者の憩いの場でした。

 

車中泊・飲食品持参・大幅な迂回などは苦にもならないのですが、ボラセンで「避難所や仮設住宅の場所は個人情報の保護のためにお伝えできません」と告げられると少々落胆しました。被災地には火事場泥棒がいたので(実際に遭遇しました)、已むを得ないことではありました。

 

そこで基本的には学校や国民休暇村などの公営施設を目指しました。ボラセンに渡すと窓口での事務的な授受で終わってしまう(彼らも多忙です)ので、それだけは避けたかったのです。

 

 物流業界では“ラストoneマイル”なんていいますが、私の場合は“ラスト0インチ”、被災者の方に直接“手渡し”することにこだわりました。

 

 本を寄贈される方々はそれぞれ思いを込めて段ボール詰めをされて贈られます。幼いお子さんの可愛いメッセージを添えてくれたり、本だけでなく縫いぐるみを添えていたり、京阪神の被災地からも結構届きました。そのひとつひとつに皆さんの被災者への思い遣りが溢れていて。「これから運ぶのは本だけではないよ」と伝わってきたのです。

 

それと、行く先々で出会える子供たちの笑顔と輝く瞳には、ほんとうに救われました。帰りに車を追い駆けて笑顔で見送ってくれたちびっ子達には・・・ルームミラー越しにKOされました。

 

「応援に行ったはずなのに逆にこっちが・・・」とボランティアの皆さんが異口同音に仰ります。まったく同感でした。

 

こうして発災後3カ月もすると類似のボランティアも増えてきました。見れば後発組の方が被災地にネットワークでもあるようで、細部まで充実しています。そこで「自分の役目は終わった」と感じ、幕引きを決めました。

 

浪速の商人魂の教え

 なぜこんなにボランティアに精を出したか不思議に思われたかも知れません。(日頃は全く関心を持たない人間ですし)

 

 かつて大阪に赴任した1996年は阪神淡路大震災の翌年でした。その3年ほど前に一人旅で訪れた神戸の美しい街並みが見るも無残に変わり果て、阪神高速がまだ横倒しの状態でした。

 

 大阪市内の中心部は被害が無かったので震災とは無縁の営業活動をしていたのですが、大阪商人ならではの商魂の逞しさにやや辟易としておりました(苦笑)。

 

彼らに言わせると「関東の人間はまどろっこしい(orエエ格好しい)」そうです。或る意味で大阪の商人は洗練されていて「儲かるんか、ちゃうんか、結論から言うてんか。商いやさかい」と無駄を嫌い「儲けてなんぼ」です。

 

そんな商魂を練って出来たような経営者のお一人が、問わず語りに震災当初を振り返って話して下さり、こんなやり取りがありました。

 

社長:「高速(※)をチャリンコ転がして来た被災者全員に、食品から衣類から持てるだけ持たせたったんや」  (※阪神高速。瓦礫や寸断がひどい一般道を避け、高架沿いに物資調達に来阪したそうです)

私:「え?タダで、ですか?」

社長:「アホか!お代なんて頂けるかいな!」

 

まったく失礼な質問で(苦笑)すかさず絶妙な間でツッ込まれてしまいましたが、日頃は「それ、儲かりますの?」とか「で、なんぼや?」が常套句?のコテコテな爺さんから、そんな言葉が出てくるのがほんとうに意外でした。

 

不思議と今でも、その時の社長さんの眼差しが忘れられません。

 

それから10年余り。東日本大震災に動揺しているさ中、もう鬼籍に入られた社長さんが甦ってきたかのように思い出されて、、、迷いが晴れたのでした。

④ All that matters is story.(大切なのは物語)

そして故郷へ

 阪神大震災の翌年に転勤で変わり果てた神戸を訪れ、仙台を去って1年も経ずに東日本大震災で思い出の地が壊滅しました。ここまで経験すると、自分の終の棲家についても考えさせられました。

 

 「なにか起きたときには故郷に居たい…」

 

こんな気持ちが営業にも現れたのだと思います。動けば動くほどやはり地元の繋がりも増えていきます。お客様のエリアが自宅方面に徐々に偏っていき、往復2時間の車通勤は完全に無駄足になっていました。

 

 こうして区切りのいいタイミングで地元・小山に戻ったのですが、振り返ると10年ひと昔で、確かにあっという間でした。

 

ここまで続けてこられたのも、ひとえにお付き合い下さっているお客様のお陰です。ただただ感謝しかありません。

 

 長い物語も間もなくお仕舞いです。何事にも終わりがあるということは、考えてもみれば儚いことです。

 

 命も儚いもの。たった一度きりだからこそ価値があるのですけれど。

 

 先程のボランティアで届いた本のなかには何冊か重複する絵本がありました。それが「100万回生きたネコ」「あらしのよるに」「星の王子さま」です。

 

 「100万回生きたネコ」はご存知でしたでしょうか?発刊40年余り色褪せることなく累計部数200万部超えの隠れた名作です。「あらしのよるに」は初版が1994年、2005年の映画化もあり同300万部超、「星の王子さま」はさすがの1.5億部と桁違いです。(部数はご参考。本の価値とは無関係です)

 

 絵本は大人になって読むと当時の思い出が甦るだけでなく、子供の頃と違った味わいも楽しめるので結構お勧めです。名作というのは時間と空間を超えて本当に大切なものや、人生の意味など、読み手に問い掛けてくれます。このさい数字も何もかも忘れて、本屋さんでめくってみませんか?(笑)

 

 人生も、考えてみれば“その人が生きて紡いだ物語”です。

 

 賢者が学ぶという歴史(history)も、その語源は“his”“story”つまり「彼の物語」なのだとか。

 

 人との出会いは、その人の物語に参加させて頂くことだと思います。

 

 人生ですから、山あり谷あり快晴もあれば猛吹雪もありです。そこにIFAとして参加する責任は、小さくありません。どれだけお客様に心を寄せて、その課題に取り組めるか、解決に導けるか。

 

 さだまさしの名曲に出てくる“一寸法師の赤鬼”役にも支えてくれる人がいるように、いや到底そこには遠く及ぶべくもありませんけど、その思いの深さを受け止めて、これからも主役でも脇役でもなく“縁の下の力持ち”に徹しようと思います。

 

 ・私の何よりの働き甲斐は、IFAとして肝腎要な時に、お客様のお役に立てること。

 ・私の何よりの名誉は、“縁の下の力持ち”としてエンドロールの片隅に刻まれること。

 ・私の何よりの夢は、果てなくつづくお客様の物語に、末永く貢献していけること。

 

 こんなことを思いながら、年がら年じゅう迷いながら、日にち毎にち自問自責しながら、日々の仕事を務めています。

 

 いつかどこかで、何かのご縁で巡り合うことが叶いましたら、ぜひ貴方さまの物語を聞かせて下さい。日本トップクラスの(ただし涙腺の弱さ)IFAが、不器用ですが一所懸命お供いたします。